導く人と惑う人々の花、それは

 

 

 

 

 

 

SixTONESのメンバーとして大活躍中の松村北斗くんのあやめを鑑賞した。

 

元々、本家である加藤シゲアキさんのあやめが大好きだったのであれを超えるものはまず無いだろうというのが本音だった。

というかそもそも、ソロにあやめを選ぶ人がいることが驚きだった。あんなに難しい曲を…

 

メロディーラインはさる事ながら、世界観やその解釈の仕方など、かなり難しくどう演出していいかはきっと迷うことだと思うし、すでに加藤シゲアキさんであやめは完成されているので、なおさら、前例があるからこそ、それを再び加藤さん以外の人が歌うというのは難しいのでは、と思っていた。

 

だが、はっきり言って、そんなことは私の杞憂にすぎなかった。

松村くんのあやめは、完成されていた。

それはしかも、加藤さんとは全く別の世界のあやめだったのだ。

それではここで、加藤さんと松村くんのあやめについて、いくつか観点を分けてまとめてみたいと思う。(論文ですか?)

 

あらかじめ言っておきますが、これは100%私個人の解釈ですので、本人の考えとは全く違うものかもしれませんが(というか多分全く違うはず)、「こんな考え方する人もいるんだな、ふーん」くらいに思っていただけると幸いです。

 

 

 

 

 

  • 2人が求めるもの

いやまあ加藤さん「光の地図を求める」言うてますやん!って思ったよね?私も思った。でもちょっと私個人の解釈加えさせてね。

加藤さんは曲の冒頭、床に倒れる。そして、横たわったまま曲が始まる。

母の胎内、生、そして現世での苦しみや葛藤を描く、言わば人生のような……そんな壮大な流れをこの一曲で感じることが出来る。

このあやめでは、加藤さんは何度も「空」に手を伸ばす仕草を見せる。彼が求めるものは何かと問われたら、私は「光のある未来」と答える。

なんだか漠然としてるけど、あやめの中で「空」や「光」というものは多分未来の象徴なのでは、と思うんですよね。

空に手を伸ばす加藤さんはきっと未来を目指していて、でもそれはただの未来じゃなくて、光に溢れた未来だと思う。…ほんとに8割方私の願望のような解釈の仕方ですけど…

 

それに対し、松村くんが目指すもの、求めるものは 未来を見せてくれる誰か だと思っている。

松村くんのあやめは床に落ちたあやめの花を拾い集めるところから始まる。

あくまでも私の個人的解釈でしかないが、このあやめの花は、松村くんにとっての 未来を見せてくれる誰か が落としていったもので、松村くんはきっと、その未来を見せてくれる誰か になることによって初めて未来へ行けるのだと考えているのではないか、と。

松村くんの求めるものは、誰か が落としていった花を拾って自分の物にすることで、憧れたあの未来を見せてくれる人になれるんだ という望み。

…と、言いたいところだが、実際私が感じたのは望みと一言で表せるほど美しさオンリーのものではないのだ。うーん…決して悪い意味じゃないからこの説明は次のリスト読んでください🤫

 

 

 

 

  • 人間らしさ

加藤さんのあやめは、そこはかとなく儚げだ。漢字一文字で表すならば「儚」だと思うのだが、松村くんのあやめは___もちろん儚さもあるのだが____儚いと言いきることは私には出来ない。

その理由は、松村くんの表情にある。

冒頭、あやめの花を拾い集める松村くんは必死だった。なんだか、焦っているように見えたのだ。そこに私は松村くんのあやめにある儚さではない他のものの存在を感じた。

そもそも私が儚さを感じるのは大抵、人間らしさが薄い時だ。あやめの加藤さんは、私には人間らしさがあまり感じられない。「かつて人だった存在」といったところだろうか。

それに対し、松村くんのあやめはとても人間くさい。花を必死で集めて胸に抱きとめて離さないその姿はまるで、幼い子どもが自分の気に入ったものをいつまでも離そうとしない姿に似ていた。

望みだけではない。

私が感じたのは、「懇願」と「欲」だった。

 

人は皆、誰しも欲を持っている。それには様々な形があるが、どんな内容であれ、欲を持っていない人というのは限りなく少ないはずだ。

松村くんの 望み は「希望」であると同時に「欲望」でもあるのではないか。そう思ったのが、先程望みだけではないと言った理由だ。

 

誰か になりたい。

未来へ導く、誰か に。

 

それが松村くんの希望であり、欲望だと思う。そしてそれを、誰か が落としたあやめに希うのだ。

欲望を見せる松村くんのあやめは、根底がとても人間らしく、儚さとは真逆の力強さも感じる。

 

 

 

 

  • 松村くんは苦しみの中にいる

そんな人間くさい松村くんのあやめだが、一貫して見ている私に感じさせる、人間らしさに関係したもう一つのことは、ずばり苦しみである。

加藤さんのあやめは胎内から始まり、生を受け、現世で愛が上手くいかないことを知り、もがき苦しみ、それでも蜘蛛の糸など頼らずに自分の力で光ある未来へ向かう。

加藤さんは、この一曲で苦しみを乗り越えている。

 

しかし、松村くんがあやめで体現するのは苦しみを克服する姿ではなく、苦しみの中でもがく姿だ。

苦しみが過去のことではなく、あやめを歌う松村くんの今、そこに立ちはだかっているのだ。

加藤さんは「苦しんだ」。

松村くんは「苦しんでいる」。

その違いが、儚さと力強さの境目であると考える。

 

 

 

 

  • 導く人と惑う人々、導く人になりたい惑う人

さて、ここで今回のブログタイトルにもなっている導く人と惑う人々についてお話したい。

ここまできて薄々、もしくはかなり気づいている人も多いかもしれないが、ここでいう導く人とは加藤さんであり、惑う人々は松村くんである。

そして、松村くんの 未来へ導く誰か とは、誰でもないあやめの加藤さんのことであると私は考えている。

 

虹の旗を掲げ、惑う人々を光ある未来へ導くのは加藤さんだ。あれは確かドラクロワ民衆を導く自由の女神をモチーフとしているんだったっけ?

ならば松村くんは、それを見た惑う人々の中の一人だと思う。

松村くんは今苦しんでいる中で、導いてくれる加藤さんを見つけて感銘を受けたのではないか。この人は信じてもいい人だと思ったのではないか、と。

 

私が思う加藤さんのあやめと松村くんのあやめの最大の違いは、それを歌う表現者自身の立場である。

松村くんは明らかに導く人ではない。

導かれた人__つまり惑う人なのだ。

 

でも、導く人である加藤さんの視界にはきっと惑う人々の中の一人の松村くんはいないと思う。…というか、いるんだけど、それを松村くんとして認識してはいない気がするんだなあ…そして多分松村くんはそれをわかっていると思うんですよね。

加藤さんは一緒に未来へ導いてくれるんだけど、ついてくる惑う人々を一人一人は認識していないだろうし、私個人としては認識していてほしくない。これはあくまでも私個人の意見ですよ…

 

 

 

 

そして、私が最もお話したい松村くんのあやめに対して思ったこと。

 

加藤さんのあやめは、見ていてただただ圧倒されるような感動だった。

だけど、松村くんのあやめに対する感動はそんな壮大なものではなく、人目につかない場所で努力を積み重ねる少年の姿を、物陰からこっそり覗き見しているような、そんな感覚だった。

松村くんのあやめは幼い。

だけどその幼気な姿に共感し、心が動かされるのだ。

 

ブログの冒頭で、松村くんのあやめは完成されていたと言ったが、それは、「未完成である」という事実を含んだ「完成」である。

 

導く人と惑う人々の花、それは、言うまでもなく。

 

 

 

 

 

 

 

 

_____________

 

っう〜〜〜〜〜〜〜ん!!シメが雑!!ワラ

書いてる途中で訳わかんなくなってきちゃった。

要は加藤さんのあやめも松村くんのあやめも最高ってことです。よくわかんねえな〜って人はぜひ両者のあやめを見比べてみてください。本当に最高なので!

 

松村くんは、少年のようなあどけなさや力強さと大人の色気と儚さを上手く持ち合わせていて、アイドルとしてとってもとっても魅力的だと思います。女狂わすタイプかな?すき😆(ふざけないで)

これから頑張ってね!

 

 

大変遅ればせながらですが、SixTONESのみなさんデビューおめでとうございます。陰ながら今後の活躍に期待しています。

光ある未来になりますように。

 

そして、NEWSのみなさん、いつも応援してます。期待を超えてくるあなたたちが昨日も今日も明日も大好きです。

光に包まれた未来が続きますように。

 

 

 

 

Hope,faith,flame

Happiness certainly comes to you.

 

おしまい!散文失礼!!